宗教から離れる為の小論
2010年 07月 28日
同じキリスト教でも多くの宗派に分かれている。原理主義とか、これに近いものとして初期キリスト教の殆どの信者達の信じていたものは、原生共産主義の形を見せていたようだ。それから少し時代が下がり、オーガスチヌスの『神の国』などのような文明社会の人間の生き方が大きく支配をし始めて居た頃のキリスト教、更に後の時代のスイデンボルイのスピリッチャリズムの濃いキリスト教や、メノナイト派の厳しい戒律、そしてバンヤンの『天路歴程』などが同じキリスト教でも、はっきりと右派と左派に分けられ、それらが同調することは決して無い。同じ事はあらゆる大きな根を周りに生やしている宗教の場合には、当然起る現象である。大乗仏教の根の周りに原理的な小乗仏教の信者達が、今にも戦いを挑むように集るのも仕方がない事だ。私自身、若い頃はキリスト教でもいわゆる聖霊派に属し、来る日も来る日も喉が嗄れるほどに説教を続けたものだ。同じ事がイスラム教の原理主義の場合に於ても言える。特にこの派の過激な信者達はアルカイダと呼ばれ、キリスト教の人々と厳しく対決している。こういったイスラム教の学問を身に着けようとしている神学生達は、いわゆるタリバンと呼ばれていて、この地球をイスラム原理主義によって指導しなければならないといった夢を崩すことはない。貧しいアフガニスタンの東部の峩々(がが)たる山岳地帯には、半ばパキスタンから独立しているような不思議な少数民族が多く存在する。彼らこそ、タリバンの心を他のイスラム教の宗派の人々よりもよりはっきりと抱いている。タリバンの中心に置かれているのは、アルカイダの大きな夢である。イスラム教の中の過激な原理派の人々は、大国アメリカの大らかさや大人の思いをそのまま理解出来るほど穏やかではない。むしろバンヤンや、オーガスチヌスのキリスト教に簡単にはついていけないメノナイトや聖霊派の過激なクリスチャンと何処かよく似ている。「神」の存在とは、落ち着いて考えてみれば、どんな神であっても人間の造った偶像そのものであり、世界三大宗派始めあらゆる大小様々な宗教は、全て偶像崇拝から離れてはいない。偶像をはっきりと否定するイスラム教のモスクも、そこにはミヒラーブが造られており、それは間違いなくもう一つの偶像である。あらゆる宗教は、全て長い文明の様々な垢によって汚されている。宗教自体様々な文明の中で産まれた落し子の一つであることを思えば、大自然の流れの中で、まともに生きようとする生命体は、これから離れる必要がある。
by meisou09 | 2010-07-28 10:10 | Trackback | Comments(0)
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