IE9ピン留め

中近東のブーツキャンプ

 人間には身内のものとか仲間というものを他の人々と区別して扱う所がある。個人的に必ずしも家族とか仲間といったものが大きな輪になってその人を取り囲んでいる場合もあるが、中には一人二人のひっそりとした付き合いでしかない場合もある。この小さい人の群れは、必ずしも団体とか集団といった名称で呼ばれることは出来ないが、百人千人と広がっている如何にもマスゲームとしては見栄えのする集団なのだが、そこには複数の人間の集りにみられる精神又は言葉の濃さというものが感じられないのに比べ、内容がよく濃い本当の同胞、又はハラカラという意味で繋がっている人と人との関係というものは望めない。グルジィエフの思想はこのようなイナー・サークルとして位置づけられていて、単なる社会的な又思想的な明るい団体としては周りに映らなかったようだ。一見フリーメーソンのように世界的ではないにしても何処か秘密めいたところがある団体からは程遠い所でグルジィエフは人間の本当の生き様を見ようとしていた。
 遥か昔アトランテス大陸が存在していた頃から現在の文明社会の周りに広がる宇宙的な謎を解く鍵について、彼は彼自身の中から紡がれた智識を伝承しているのである。どの様な組織とも関わりなく、それでいてその秘密めいた人生観は、心ある者には決して現代の神話として脇に捨て去ってしまうことは出来ない。それは人間に内在している叡智とも考えられるようだ。グルジィエフやウスペンスキーはこのような結社が地球上の何処かに物理的に存在すると考え、中近東やインド各地を探索していた。グルジィエフは中央アジアのサーマン・ブラザーフッドと呼ばれる訓練所又は神学塾で彼自身の宇宙観又は人生論のシステムをそこに集まった弟子達に伝授した。こういった中央アジアに出現した学校とも、訓練所とも所謂アメリカのプロテスタントの牧師たちを海外向けの逞しい宣教師に仕立て上げる為に合衆国の各地に作られた「ブーツキャンプ」に近いものだったかもしれない。全く文字など知ることなく自然を自然のままに見つめていた裸族たちに天然の豊かさを教える文明社会の大学教授のような、というよりはむしろ独学で身に着けた碩学の士が敢えて大学から頼まれて講師になったような人物こそ、確かに真実の教師であり、本来の宣教師だったのではないか。グルジィエフもウスペンスキーも彼等の履歴を問うならば、次から次へと出てくるビブログラフィカルな表現が私たちの心を燃やしてくれる。
 グルジィエフは惜しみない言葉をほとんど全部使いながらまるで天使を見ているようにウスペンスキーを見て羨望した。ウスペンスキーが彼の心をそのまま表したような作品は『天使論』である。古今東西のあらゆる神秘主義的思想をフルに採用し、グルジィエフ独特の体型を完成しているのが多くの彼の作品である。神秘主義は文明社会の綺麗事の一切を掃き清め自由自在に人が解っていたり、まだ納得できないあらゆる面に於いて単純に大らかに万有をそのまま信じているだけなのだ。
 グルジィエフもウスペンスキーも、ミラーもそして梁山泊のごくごく僅かな私たちもこう言った新しい天使論を信じているのだ。私たちを一つのカルト集団と見做さないで欲しいものだ。


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# by meisou09 | 2012-01-14 12:29 | Trackback | Comments(0) 

 On P.D.Ouspensky

 茫漠とした不可解なものでしかなかったのが神秘思想だった。芥川龍之介の心に彼が自殺するまで常につきまとっていたのが、この漠然とした不安な気持ちであった。所謂科学精神の光をこの神秘思想に最初に当てたのはウスペンスキーであったと言えるかもしれない。
 二十世紀から今世紀にかけての神秘主義思想を語る時、誰しもウスペンスキーを外したところで考えることは出来ない。1915年ウスペンスキーはグルジィエフと出会うのである。「ターチャム・オーガム」に始まる学者ウスペンスキーの神秘思想へのアプローチは数年に亘るグルジィエフとの師弟関係によって大きく変わる。科学者ウスペンスキーから神秘思想の実践家への変身の時期があった。グルジィエフというマトリックスはそこに第四の道を歩むウスペンスキーを出現させる。
 グルジィエフは単身ロンドンに渡り、彼地に自分自身のセンターを設立した時ウスペンスキーは彼独自の展開を始めだした。それは1921年のことであった。グルジィエフとは異なり、ウスペンスキーの主な興味は次の次元論である。
 彼の次元論は従来の時間と空間に関する感覚を完全に超え、現代物理学の言葉で「スペース・タイム」(時空)という概念に共通点を見出すことが出来るのである。輪廻転生、パラレル・タイム、永遠回帰など、ある意味では実生活に即さない、単なる感傷に過ぎない概念を彼は語りたがらないのである。しかし彼の著作『第四の道』の中では言葉のはしばしに彼の主要な関心事がそこにはっきりと有ったことが窺われる。『A New Model of the Universe』(超宇宙論)など、極めて知的な著作の影には豊かな情熱と研ぎ澄まされたような感傷に溢れた人物ウスペンスキーの存在を感じない訳にはいかない。彼は人間の未来に絶望しつつも、明らかにそこには何らかの光明を見出していたのだ。それは眼に見えないくらいに幽かな光りであったかもしれないが、そこに唯一の可能性を見出そうとしている。人間は常に進化する可能性を秘めている。彼は隠秘な性格を持っている数多くの原観念や言葉を新しく自分の中の脳細胞の中に宿していた。従って多くの彼らしい仮説が生まれそれは現代人の想像力の貧困さを貶めるのに十分な力を持っていた。バーバリズム、つまり野蛮さの原理の中にしか人間本来の純粋で素朴な原理はないと彼は信じていた。こういう考えを彼独特の大自然理解の中に持っている彼は、やはり堂々とした碩学の徒であることは間違いない。

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# by meisou09 | 2011-12-14 10:04 | Trackback | Comments(0) 

雑草の庭

 雑草を刈ったり抜いたりして梅雨の合間の晴れた日を利用しているが、雑草は常に伸び、これからの夏から秋にかけて絶えず大自然の動きと格闘しなければならないようだ。一言で言えば雑草だらけの、というよりはそういった雑草を抜いた後の庭や竹薮の中は「雑草と限りなく楽しんで暮らせる本当の荒野なのだ。」
 生きると言う事はただ単に家族と暮らし、必要な金のために本当の意味では本人の喜びには決してならない仕事にその人の人生の大半を費やしてしまう恐ろしいロスの時間だ。自分の好きなことを生命をかけ、自分の喜びとして何処までもやっていけるなら、それは間違いなく人の悲しい社会の中で与えられたルーティーンによって動かされている身ながら、与えられた生命を全うできる本当の生き方のようだ。心の中に又日々の行動の中に、我々には常に雑草が後から後へと生えてくる庭がどうしても必要である。
 雑草という言葉で茂っている心や魂やそこから生み出される生命こそ、大自然の咲かせる花であり、天然がキラキラ輝かせてくれる清冽な放射能なのである。人生には完全に予想可能なような道筋はありはしない。人生を旅するものは毎年、毎日、意外と思われるような道標に出会い、全く予定していなかったような事情のもとで道筋を変えることが多い。プランを立てていたものが何時の場合でもそれをご破算にして新しく進みなおさなければならない時が各地で起こる。つまり人生の旅は常にリプランしなければならない。だがこのreplanは常時生き生きと動いている生命にとってなくてはならない大きな力なのだ。文化生活というか、文明のプランの中に閉じ込められている人は目の前に現れるこのリプラン又は非常の事態などをやり過ごしてしまい、それがチャンスであって本人にとってはなくてはならないものだということさえ無視して予定通りの道を進んでしまう。自分らしく与えられた生命を旅するためには、あまり利口であってはならない。利口さとは結局この世からは離れることが出来ず、本来の人の力を発揮するシンプルさの前では敗退してしまうのだ。豊かで活き活きとした本当の身体や心はこの単純さからしか生まれないのである。
 文明人間が自ら作り出した、地上至る所に流している僅かな種類の悪質な放射能は別として、太陽などすべての恒星などから発射されている天然の流れとも言うべき微妙な放射線の力はあらゆる生命体の生みの親とも言うべき気の働きなのだ。このような天然の放射能にははっきりと天地創造や生命を生み出す力が備わっていることを私たちは知っている。文化文明のあらゆる力は、人間が原始理論の中で作り上げた生命を縮めるような放射線を声高々と伝えている。
 私達は、野や庭の、抜いても抜いても雑草にも似た天然の限りない放射能を身体中に、又心の全域で日々受け止めたいものだ。


# by meisou09 | 2011-11-16 18:19 | Trackback | Comments(0) 

挑戦する言葉

 人には何事に関してもその人の力を出し尽くす、いわゆるチャレンジする思いがある。有るというよりはむしろそう云う時間がなくては人は生きられない。真面目な態度でいても、ぐうたらな態度でいても、笑っていても泣いていても、人は常に自分の中の精神に心を込めて取り組まなければならない存在であるようだ。誇っていても、恥をかいていても、常に最も下の自分から立ち上がる意気込みがなくてはならない。燃える心こそ、その人を一歩前進させることになる。どんなに天然の中でゆったりと流れていても、そのまま同じ状態で居られるなら、そこには間違いなく長い間には緩みが生じてくる。この緩みこそ人の敵なのだ。
 真面目に生きていれば良いというのではない。笑い、泣き、怒っていても力一杯自分を出しきり、今置かれている状態にぶつかっていかねばならない。同じ流れの中で浮かんでいるなら、そこにはどのようなチャレンジ精神もその人らしい生き方のリズムも現れてくることはない。生きると言う事は、より良い環境に生まれ、その中で育ち、老いていくことではない。むしろ不幸であること、不満であり苦しく悩み痛む今の自分を、むしろ与えているものをチャンスとして受け止める人こそ、幸せである。人よりも余計にチャンスを与えられている自分に感謝が出来る人は明らかに周りの人以上に幸せを受けている。より多くの苦しみこそ、又痛みや悲しみこそ、その人をより多くの幸せに既に引きずり込んでいるのである!
 言葉とは人の中から出てくる幸せの流れなのだ。言葉こそいきいきした人生そのものであり、人は人生を常に自分の言葉というもので以て投映する影なのかもしれない。言葉はそこに結果する種なのである。現実を造り出す夢だ。何かによって失われ、崩される言葉は要するに自分の心から出た言葉ではないのである。時間や歴史の中で様々な言葉によって吹き飛ばされ、考えによって消されていく文明社会の中で流れている言葉は初めから捨てて掛からなければならない。そういった言葉は、単なる社交辞令であり誰もが同じ時に同じように使っているので、何かを本気でやる人にとっては殆ど意味を持たない。永遠という時間の流れの中では益々大きなエネルギーを生み出す。放出するエネルギーの塊としての言葉は、その人の心から生み出されるものであって、それを生命を守る放射能の類と見て差し支えない。こういう言葉は沈黙に裏打ちされた心の言葉であって、それを精神そのものと呼んで差し支えない。人は何事においてもチャレンジする力を発揮する言葉でもって生きたいものだ。



# by meisou09 | 2011-10-24 15:42 | Trackback | Comments(0) 

 独学のもう一つの意味

 鉄は熱いうちに打つのが良いと言われているが、果たしてその鉄則に従っているだけで良いだろうか? しかもそうすることによって人は一つの方向から向きを変えられないでいるのも事実だ。単に師や社会から何かを学ぶということよりは、独学の方に重点をおくというのはこういった意味においても大きな意味を持っている。
 自分の中で動き出す大きな力が師の言葉や教えや、いわゆる学校の定めた方向から飛び出して動くとき、その人間は苦しみも多くなるが、何か本人らしいものを発揮することになる。バイブルに寄り添っているだけで動きの取れないキリスト教信者や、経典に縛られている仏教徒も、コーランの重さに耐え切れなくなっているイスラムも、この点から言えば余りに固く打ちすえられていて、そこからより良いものに飛び出す勢いが無くなっている。
 生命がより良くなる為にはどんなに打たれていても最後の1%ぐらいに動き出せる余裕がなくてはならない。その力は独学精神から生まれてくるものだ。より大きく伸びる為、更に個性豊かな自分になる為にはまるでこれまでの教えとは反することを言うようだが、柔軟な、また曲がりやすい、伸びやすい自分を常に用意していなければならない。生命体は何であっても常に心と身をくねらせる状態でなければならない。ある意味で、文明人間とは何処までも硬い鋼鉄の塊の様なものであり、チタンのような一切の曲がりを許さない律の様なものだと思う。
 人は若い頃、幼い頃、常に接近してくるものよりも更に大きくまた良いものになろうとするため、大人から見れば耐え難いほどの頑固さで、訳もなく泣き叫ぶことがある。大人はそういった子供や若者の頑固さを第一反抗期とか第二、第三反抗期などと表現している。既に固まった人格の中でしか生きられない大人という名の人間は、そのことによってこの社会を十分穏やかに、しかもどんな困難な中でも何とか生きられる自分に深い安心感を持っている。この安心感がないのは本当の宗教人であり、芸術心を生き方の底に持っているごく僅かな人達だけである。社会的に何の問題もない宗教人や芸術家達は山ほどいても、完全に固まっている鉄の塊のような生命体は自由に動くことが出来ない。一見とても頑固なのでなにか役に立つように見られてはいるがその実殆ど無価値なのである。
 周囲の者たちを様々に傷つけてしまう或る人達も、意外とこちらの心を大きく広げて見つめて見るならば、実はとても心の優しい人達に見えてくる。



# by meisou09 | 2011-10-03 15:16 | Trackback | Comments(0) 

禊ぎ(みそぎ)と祓い(はらい)

 物事は何事も常に変化していく。存在するもので常時同じ状態で居るものはない。何事も常に変わっているので、そのことに生命体はどんな種類のものであり、普通そのことを気にはかけない。初めは若く、やがて歳を取っていく。大自然は常に変化していく。もしそういった中に変化しないものがあるとすればそれは時間だけだ。或る人は時間も変化すると言うが、それは大きな間違いだ。その人が時間と見ているものは、実は時間ではなく時間の傍らに存在する物事の方を言っているのである。不変化とは、我々の日々の表現力の中で少しずつ壊れているものは其の様に見えないからである。錆びる物、崩れるもの、壊れる物、外れるものなどを意味しているのである。更には、汚れるもの、変わった匂いになるものなどもこの部類に入る。
 浄化したり、全く新しいものになったり磨いたり、取り替えなければならないものや直すという言葉で表している物は存在してはいるが、古くなったものを祓い、更には大祓する必要がある。家の中の家具でも、身に付けている服装でも、更には頭の中の考えでも訳は同じだ。
 しかし私達は此の様な物を直したり調子を取り戻すためにそれに対するある種の技術を使って手を入れる。つまり祓うのである。
 其の様な改良をしたり直して使う事を一切忘れ、新しいものを手に入れて始まる時、そこには禊ぎのスタートが見られる。先ず最初にはその存在するものを全く新しいものにしなければならない。つまり禊ぐことが必要なのだ。禊ぎの徹底的な形として大禊ぎが先ず初めにされなければならない。一つのものが改良されていくのではなく、全く別種のものに変化させる必要があるのである。汚れたものがそのまま磨き直されたり、新しいネジで止められたりするのではなく、全く新しいものに、つまり別のものになって存在しなければならない。これまでの習慣や、こびりついていた物、傷んでいた物など一切を取り除き、浄化し、全くの玄の状態、素朴そのものな生命の現実として新しく生き始めなければならない。そこから新しい匠の業が動き出すのだが、それを大禊ぎと呼べるのである。日々の生き方の中で又、己の瞬時の気の流れの中で行われるのがこの大禊ぎの技であり、そいう自分の確かな自信が持てるとき、その生き方の、又その存在の中で大祓いは大禊ぎから見れば、大変小さな祓いであることを人は知るのだ。
 禊ぎも祓いも決して神道という日本古来の宗教の用いる言葉ではない。現代のごく自然な言い方の言葉に変化させるならば、禊ぎは人格の、又そこに有るものの存在を全く別の物への変換であって、祓いは常に行っている古びたものの部品の取り替えに過ぎない。大きな生まれ変わりは大禊ぎであり、単なる存在するものの改良は大祓いと言ってよいだろう。
 或る人物は初め塀の中の人間だったが、全くの禊ぎを受けた後、人として役に立つ人物になった。こういう人間は多少傷ついたりする一面も有るにはあるのだが、常に祓いを行い、つまり反省していくことが可能のようだ。
 大禊ぎも大祓いも確かに現代社会のこれに当てはまる言葉で表現するよりは、より大きな理解力を持っているように見えるのである。

# by meisou09 | 2011-09-09 20:04 | Trackback | Comments(0) 

最高の参考書

 現代人の言葉はその内容が忍術に等しく、更には妖術にも近いものになっている。言葉本体の天然の流れの勢いはそこに見られない。生命を持っている人の身体であるにも拘らず、骨格も内臓も全て本来の生命と直結しているものの大半を失っている。
 言葉が言葉本来の力とも言うべき自由を失って、他人を騙し、誤魔化し、迷わせ、狂わせる力に満ちているところに、現代人の知恵とも看做されている言葉が忍術の類であり、妖術の不気味さを持っていることを良く表している。言葉は本来人にというよりは人の生命に自由を与えるはずであった。そのような言葉が詐欺まがいの学問や、商売や政治経済、更には歴史地理、思想の中にも割り込んできていることは何とも悲しいことだ。
 言葉は学問という手順によってもう一度言葉本来のレベルにまで引き上げることが出来るはずだ。しかし単なる学校教育や社会教育などといった、人間の肩書きや権威と結びつくレベルでは、決して教育本来の力は発揮できないのである。
 学問とは独学のネットワークであり、投げ捨てられている古い書物の1ページや1行に残されている技術から汲み取ることが出来る。素朴で単純な心で生きている人間が語る本式の匠の技としての技術に繋がる言葉で何か短い言葉が話される時、それは心を込めて耳を傾ける者にとっては間違いのない独学なのである。教育とは物を学ぶことではない。それは参考書に頼ることでも辞書の教えに従って何かを考え、書き、話すことでもない。師を持ち、師に従っている限り弟子は何時になっても弟子のままだ。師の言葉から離れることは出来ず、師の考えから飛び立つことも出来ない。師が存在することには深い意味がある。師無くして一人の人間の心の芽生えは生まれない。全く師が存在しないのに無から芽を出す大きな人物の広がりは滅多に存在するものではなく、これこそは奇跡と言わなければならない。自分の中心は常に独学精神で埋まっている。新大陸を夢見たコロンブスの心そのものも、又ウプスラ大学でヒントを与えられた北欧人のアメリカ大陸探検記から大きなヒントを得ていたと言われている。それが独学でなかったこともよく分る。空を飛べたライト兄弟が現れたわけではなく、ヨーロッパの多くの夢見る人達が何度も飛ぶことを体験していた。あの単純な飛行機は独学の姿で彼等の前に現れた訳ではない。
 所謂師というものが存在するとすれば、それは最高の参考書という名で呼ばれるべきである。人の心の中にこの種の参考書が存在していて、そこから出る光が彼を打ちのめすのである。それに目覚めるとき、人は独学の道を辿ることになる。社会のあちこちに存在する学問も技術もそのままでは決して独学の光を発することなく、闇の中に輝く大きな時代の行動とも成り得ない。生命の行動の万事は、どんな師に就こうとも学校に入ろうとも結局は自分の生き方の中で体験しなければならない「独学」という名の師と向き合う学問なのである。



# by meisou09 | 2011-08-17 10:57 | Trackback | Comments(0) 

 焼印の付いた言葉

 私の言葉は私個人のものであり、固有な様々な色合いから出来ているマドラス シャツであり、自分らしさしか表現できないノーアイロンのシャツに等しい。つまり長い歴史の中で誰もが使ってきた言葉を使いながら、一旦私の中に閉じ込められてしまうと、それは私だけの言葉になってしまうのである。私の言葉は私のノーアイロンのシャツであり、それには私自身だけのモノグラミングのシルエットが付けられていなければ、どうしても私は満足しない。しかもその傍らに小さく「超」、又は「スーパー」という一言が入っていなければならず、そうでなければ私は満足しない。釦そのものも改良されたり復興ではなく、明らかに革命であり新生そのものでなければならない。言葉は、何処までも口の中でモグモグ言われていた稗田阿礼から大きく開かれた万葉の言葉に至るまで、そして現代人のヘリテージの力強い私達の言葉であって、自信を持ってそういう私の言葉にははっきりと、取れて無くなることのないパッチワークが施され、リネンやマドラスのシャツと同質のシャツにも等しい言葉には季節の変わり目で、又暑さ寒さから身を守るためだけに存在するのではない。自分の中の美の感覚の流れを、より明瞭にシャツや他の衣類に関してもはっきりと表しているのだが、私の言葉にもはっきりその印は付いている。
 自分だけのシャツだと言いたげについているチノグラムも、間違いなくその人がカスタマイズしたものだと言う事を示しているが、これと同じことを私は自分の言葉に応用したいのである。自分の牛に焼印を押して、はっきりと自分の所有であることを表すのと同じなのだ。アメリカ西部の開拓民はこの事に余程心を使っていたに違いない。
 人は誰でも、自分らしく、しかも軽くて時には重たくて、それでいて楽であり楽しく身に着けられる自分自身のシャツが欲しい。それと同じく人は自分の最も使い易い言葉が欲しいのは当たり前だ。開拓者達もそれを望んでいたのでデニムのシャツを着、ジーンズのパンツを身に着けていた。ぶら下げていたあのむやみに長くて重いピースメーカーも、汚れていればいるほど彼らにとっては格好が良いものだった。シャツなどは少しぐらい切れていて、パンツの裾や膝などは色が落ち、ギザギザになっていればいるほどその男のジーンズは光り輝いて見えた。しかも女たちに憧れられたのである。彼等にとっては、ブーツを履いたまま弾に当たって死んでいくのが理想だったに違いない。そういったシャツなどは男らしさそのものであって何処までも地の果てに彷徨っていく言葉の強さと何処か似ている。もう一人のブーンになりたいというのは開拓者の男達の夢だった。
 言葉も又、その本質を見詰めようとすると、これと同じだ。一つ一つ誰もが使っていても、その人の手に渡ると突然それはその人によってカスタマイズされ、彼の焼きゴテが当てられる。
 その人特有な「スーパー」というモノグラムの付いていないシャツや言葉には生命の力が入っていないのは当然のことだ。



# by meisou09 | 2011-07-26 11:59 | Trackback | Comments(0) 

 経済力を正しく知って

 今度の大災害も原発の問題も少しずつ何かが動き出しているようだが、人々はそれには満足しないようだ。津波に遭った多くの土地を専門家が調べても、破壊された海辺の近くや川の傍、丘の途中や山の上などで家を壊された人達の財産や不動産の所有権に就いて様々調べても、なかなか埒はあかない。元々土地というよりは大地は、全て天然の中の一つであり、自ら天然である人間は、もう一つの天然である大地を所有することは出来ないはずだ。土地は人の物であったり、天然から生まれ出たもう一つの生命でしか無い人間が所有するものではないはずだ。土地は生命と違ってそこに根付くものであり、そこにへばりついているものなのだ。生命は人から微生物に至る迄、宿主以外の何ものでもない。
 北欧人のように土地は天からの借り物であると信ずるのは正しいようだ。そして借りた土地に住んでいる人間は自分が死ぬ時、自分の生命や寿命と同じく、天然の中にそれを返していかなければならないことを信ずるべきだ。北欧では村や町の人達は、大自然と生き物との関係をはっきりと此の様に先祖代々解っていたのかもしれない。人民を前にして国が土地に関わり「天領」などとのさばってはいけない。公民と称し、今では自分達を公務員と呼ぶあの態度は何ともおかしなものであって、数多い周りの生活者が「お上」と呼んだ暗い江戸時代や昭和迄の時代を私たちは思い出す。土地、更には全ての動産なども、それらは全て大自然の所有物であり、一つとして特定な人間の所有であるものは無いはずだ。例え王や貴族であってもこの例外ではない。この事をはっきりと人々は一人一人、自分が公民、又は公人として周りに目をやっている必要がある。まだまだ「天領」という考えがその辺りにのさばっていることも理由なのかもしれないが、はっきりとオンブズマン制度というものが存在し、それを押さえる理由は何一つ無い。
 土地でも他のすべての不動産は天に属している。もっとはっきり言えば、ものや金銭さえもこれは大きな意味で天の配剤によるものであり、これを理解した上で「経済」ということを語れるなら、その人は本当の現代人としてこの世をまかり通れるのである。



# by meisou09 | 2011-07-11 09:49 | Trackback | Comments(0) 

生命のサイクル(Ⅲ)


 物を食べるということは単に飲み込むという行為である訳ではない。爬虫類ですら大きな獲物を単に丸呑みにするだけではなく、内臓から骨、肉、皮に至るまで彼らの身体の中に宿っている強烈な胃酸によって溶かしてしまうらしい。結局爬虫類も生きる為獲物を飲み込むのである。
 猛獣にとって獲物は喰らいつくことであり、噛み付くことであり、徹底的に自分の身体の中に獲物を喰らい尽くして捨てるところのないままに自分の体力として身に付けてしまう。そこには単に食べるという穏やかな行為が展開する訳ではなく、獲物の内蔵の中には猛獣たちの生き方に必要な要素が一杯用意されている。猛獣たちもそうだが、人間もまた自分の様々な病を治すのに、熊の胆やその他の内蔵の中のある部分を利用して自分の身体の中の病気を癒すのに用いている。酷い話だが江戸時代の頃まで処刑された人間の内臓さえ、ある手法で薬品として製造され、高価な値段で売られても居たようだ。勿論それは迷信に近いものであって、明治の新時代に入ると禁止されても居る。
 しかしあらゆる薬草や生き物の内蔵などが他の生き物の病を癒すのに役立つという現実の判断は、なかなか忘れることは出来ないようだ。尤も迷信として、力強いマムシやスッポンの力が人の心を揺さぶったり、野や山を力の限り走る猪や鹿などの内蔵や角などが霊力に近い力を持っていると人が考えるのも、仕方がなかったのかもしれない。
 生きる為に大きな動物や強い動物は、小さく弱い獲物を狙って追いかける。人が野草の中に滋養のある物や病を治す何らかの能力を見出したり、動物の身体や内蔵の中に同じような作用のあることを見出してきていることは、否定出来ない事実である。
 地方、地方の異なった人間集団の中に独特な薬が存在することもこの事からその事情はよく解る。例え日々の生活の中で口にする平凡な、また美味い食べ物の中にも、薬に等しい力が存在することを夫々の民族、又は地方の人々は認識しているようだ。或る人々は食事の後、「お薬戴いて有難う」と言って食事に感謝をする。食事に対する感謝の仕方は様々であるが、人は常に一種の薬の働きをする食べ物に感謝の礼をすることを忘れてはいない。
 人は物を食することを常に喜んでいる。他の動物のように向かい合った獲物と戦い、喰らい噛み付くことはなかったとしても、火を起こして料理をしながら十分に感謝して食べるのである。果たして生きる為の力の源として食べるものを実感しているかどうかは別にして、生命を磨くための食文化として理解していることは事実であり、その発展のためには前進していくのが人間なのだ。



# by meisou09 | 2011-06-22 18:14 | Trackback | Comments(0) 

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